活動レポート

第3回有識者会議 基調報告:安西祐一郎さん(慶應義塾塾長)、本田和子さん(前お茶の水女子大学長)

meeting03日本人の「心」のあり方について、各界の有識者が論じ合う「こころを育む総合フォーラム」の第3回会合が6月17日、東京都心のホテルで開かれた。今回は、メンバーの安西祐一郎・慶應義塾塾長と本田和子・前お茶の水女子大学長が基調報告を行った。この後の自由討議では、照明デザイナーの石井幹子さん、滝鼻卓雄・読売新聞東京本社社長ら出席者10人が意見を交換した。

基調報告 1

「どんな心を育むのか」安西 祐一郎(慶應義塾塾長)

全国の学校で「荒れる教室」などの問題が起きているが、それぞれに多様な背景があり、背景を個別にきめ細かく扱っていかないと、今の子どもたち、若い人たちの問題は解決しないのではないか。それを前もって申し上げておきたい。 「心」という名詞に形容詞をつけてみると、たくましい心とか、柔らかい心とか、厳しい心とか、ほとんどの形容詞がつけられる。心を育むということを考えるとき、ほとんどの形容詞が当てはまる中で、何か一つの心、絶対的な一つの心というものがあるはずだ、その心を育めばいいんだ、という考えはおそらく間違っているだろう。 心を育むというとき、心というだけではあまりに漠然としている。そこで思い切って、独立して生きる心、協力し合って生きる心の2つを取りあげたい。これらの心を子どもたち、若い人たちに育んでもらいたいとの思いを込めて話してみたい。 心を育むということは、これからの時代がどうなるのかということを抜きにしては考えにくい。国内での戦後60年間とこれからの時代を比べると、明治以来の人口増加の社会から人口減少の社会に移ることがもっとも大きな変化になるだろう。国際社会においては、欧米列強の支配からグローバル化、アメリカ一国のグローバル化と、アジア諸国のいろいろな形での表れに伴う多様化、中央アジアあるいは中東等も含めて世界の多様で複雑な動きがあると考えられる。 これからの時代は、そうあってほしいという願望も含めて申し上げるのだが、個人に埋もれている多様な能力を見つけだし、それを他者のために生かすことで喜びと糧を得ていく社会になっていくのではないか。 人はそれぞれ能力を秘めているはずで、自分を考えてみても、中高年になってこういう能力もあったのかと知ることが多々ある。そういう多様な能力の中には、他者に貢献できる能力が必ずあるはずで、それを見つけ出す。そして他者に貢献すると同時に、それによって生活の糧を得られれば、かなり幸せなことだと思われる。 そうした能力を見つけ出す機会を、一生の間に何度でも持てるような環境をつくっていくべきではないか。見つけだした能力をさらに磨く機会も、一生に何度もあっていいのではないか。 そうした考え方は、少子化の時代にあって、高齢者が十分働ける世の中を考えなくてはいけないことも含んでいる。その能力を通して他者に貢献し、喜びと糧を得ることができる。社会の仕組みにおける、基本的なものの考え方としてあり得るのではないか。 国内では少子化の一方で高齢者が増えていく時代、国際的には複雑多様で何が起こるかわからない時代の到来を考えると、日本の若い人たちは、独立して生きていく心と、協力し合って生きていく心の両方を持つべきではないか。協力というのは共存と少し違って、自分の役割とともに他者にも役割があり、それが一緒になって新しいものをつくっていくということが含まれている。 「協力し合って生きる」という言葉を縮めて「協生」としてみたが、独立と協生の心を育むために必要なこととは何か。 独立ということでは、目標や目的、希望、願望、夢とかいろいろな言葉があるが、やはり何か目標を持つことが大事だろう。高学年になるほど目標がつかみにくいというところがあるようで、目標を持つにはどうしたらいいのか、何をしていいのかわからない。何かをしようと思うのだが、失敗するのが嫌だ、不安だという。 目標を持つために、例えば、なぜ本を読めというのか。それは世界を広げるため、視野を広げるため、知識を広げるためなのだ。自分で経験できないことを本の中で体験、経験していく。知識と体験との結びつきの中から目標が生まれてくる。目標といっても、高邁な、例えば将来は科学者になるという目標でなくてもいい。1か月後にあの山に登りたい、という目標でいい。受験勉強がいけないと言うのは、いろいろな体験をする時間がなくなってしまうし、知識を広げられないということもあるからだ。 協生の心ということでは、他者の痛みを感じることができる思考というか、他者の思っていることを知ることができる、自分の思いを他者に伝えることができることがとても大切で、それには古い言葉かもしれないが、感動の体験が必要になる。子どものころの何か心に響くようなこと、あるいは涙が出てくるような体験が結局、一生残っていく。いろいろな体験の場を持てるよう周りが工夫していくことが大事だ。 昨日、外国から来ていた十七、八歳の子に会ったが、インターンシップで日本の幼稚園で英語を教えているという。シベリア鉄道でイギリスに帰って大学に入学するが、モンゴルに寄っていくと言っていた。そういう体験を、特に日本の高等学校の生徒が持てるようにしていきたい。

基調報告 2

「現代の『子ども問題』について」本田 和子(前お茶の水女子大学長)

「心」というものをどうとらえたらいいのか。心を研究する学問としては、従来は心理学が主流であったが、近年は脳科学が大変進んできた。心というのは物質ではないかという言い方すら出てきている。人間は4歳くらいになると、他人を思いやるというか、他人の思いを考えながら行動することができるようになる。これは、発達心理学が行動観察から導き出した1つの法則であるわけだが、これに対して脳科学では、その時代に脳に他人のモデルを形成する機能が発達するからだ、他人のモデルが脳に形成され、それを投影して考えることで行動することが可能になるからだと説明されたりしている。 ただ、脳の働きと人間の行動がかなり対応するところがあったにしても、それを心と言い得るのだろうか。それらすべてを総合した何かを「心」と言うのではないか。 日本は明治維新という変革期に、子どもに関しても大きな制度的な変換をなし遂げた。それは学校教育で、日本は徹底して義務教育を普及させ、完成させた。だから、ただの子どもというのがいなくなり、子どもはすべて学童になった。私たちは子どもに会ったときに、「あなたは何歳?」という聞き方はあまりせず、「あなたは何年生?」という聞き方をする。すべての子は学童であるとの前提に立っているわけだ。明治初期というのは、制度が志向する学校教育と、民が志向する学校教育が、同じ夢を共有できた蜜月時代であったなどと言われるが、学校教育が将来を規定するものとしてきちっと整備されていく、長期化されていく動きの中で、学校以外に居場所がないという子どもたちの状況がつくり出されていった。 今、引きこもりとか不登校とか言われるが、あれは学校以外に居場所を見つけることができなくなってしまった子どもたちの問題であろう。制度としての学校教育はそうした問題を必然的にはらんでいたことを押さえておかなければならない。 子どもというのは死ぬものであり、多く生まれて多く死ぬのが子どもであった。それが、医学、医療技術の発達で、すぐれた病院に運べば子どもは生き延びることができる時代になった。「死なない子ども」が発見されたというか、出現したわけだ。これは子どもにとって幸せではあるのだが、社会の中での子ども観を変えていく事柄でもあった。 このような学術の発達が、成長過程を解明できるという形になると、人の成長が操作可能なものになる。脳科学の発達をめぐり、専門家自身も危惧しているのは、それが教育を操作することになる危険性があるからだ。近代科学の発達が子どもの成長と結びついたときに、子どもが操作可能なものになっていくという動きが一つある。 また、市場社会が発達したことで、子どもは消費者として新たに発見された。子ども向けのマーケットが勃興して、これが子どもの生活と結びつく。もう一つ、市場原理的にすべてのことを考えると、子どもにどのくらい投資をするか、どのくらい取り返せるかという、投資効率から見た子どもの価値が考えられるようになる。アンケートで、私学に通わせると1,000万円かかるなら、子どもは1人しか産まないという回答が出てきたりして、投資と子どもが結びつくのも市場社会が生み出した一つの動きであろう。 情報ツールの多様化も、子どものコミュニケーション活動を変化させた。例えば活字文化が情報の重要なメディアであった時代と、今のようにさまざまな電子メディアが潮流する時代とを比べると、子どもと大人の関係が大きく変わるのは当然であって、印刷された文字が主流であった時代には、文字の読める大人が情報の握り手になった。新聞を一番先に読むのは家長である父親で、父親が説明してくれることを通して子どもたちは世界の動きを知った。だが、現在は父親も子どもも同じようなフラットな状態で情報を受け入れる。親と子のある種の権威関係、権威構造のようなものは崩れてしまう。 先ほど、学校教育の肥大化ということを申し上げたが、同時に家庭と学校で分け持つことになっていた教育の機能が、学校外の機能が弱体化してしまったことで学校に期待されるようになる。そういう状態が起こってくると、これは子どもが最初に体験すべきこと、自己肯定感とか自己自由感というものが培われる場所というのが非常にあやふやになってきて、子どもの初期体験というのがとても希薄化するということが起こってくる。 もう一つ、極端ないい方だが、子どもは少なく産んでも大丈夫で、操作可能な対象ということになってくると、子どもというのはかなり物象化され、物のようになってくる。そうなると、従来の愛し、慈しみ、未来を仮託するという考え方とは違う子ども感が出てくる。極端にいうと、忌避される子どもが増えていくのではないか。子どもの虐待が話題になるが、もしかしたら大きなシステムの問題として子どもが前ほど大切ではなくなってきたという動きがあるのかもしれない。少なくとも20世紀の前半より、後半のほうが子どもの価値とか意味とかが希薄化しているのかもしれない。 地域とか家庭における文化伝承機能は崩壊し、継承者としての子どもの役割というのも希薄化した。かつては家の何かを伝えるためには子どもは不可欠であったのが、そうした状態はなくなり、すべては個人の問題に帰せられる。新しい存在意義を見つけ出さない限り、子どもはいなくてもいいかもしれない存在ということになっていくのではないか。 近代化の諸現象は20世紀前半において、子どもにプラスに機能していた。それが後半に入ると、成長を困難にする方向、マイナスに機能し始めている。システムを過去に戻す、20世紀の前半に戻すことが不可能な以上、新しいシステムの更改が必要な時期にきているのかもしれない。子どもと大人のコミュニケーションがとりにくくなっている中で、それでも子どもは成長していく。一部の悲惨な例外を除いて、大多数の子どもはとりあえず成長し、大人社会に参入していく。これを見ると、やはり子どもというのはたくましく、成長エネルギーを持っているのだが。

自由討議

「安西さんは、体験、経験を成長の大事な要素の一つとしてご指摘になった。本田さんは逆に、そこが構造的につくりにくくなってきているという話をされた。目標があって体験するのだけれど、体験することで目標が成長していくという、らせん的な行動になっているということを安西さんはおっしゃりたいのではないか。日曜の午前中の政治番組を見ていると、何となく政治を体験したような気分になる。そういう国民が結構多くて、選挙には行かないという。体験もとらえどころがなくなってきている感じがする。子どもたちは、我々から見ると本当の体験をしていないのではないか。その点、お二人からご意見なりをお聞きしたい」 本田「私は、バーチャル体験は体験ではないとは思っていないし、子どもたちもおそらく思ってはいない。体験には大きく分けて、バーチャルなものとタンジブルなものがある。タンジブルな体験というのはかつて、触覚とか運動感覚とかを使って体験することが主体だった。バーチャルな体験は、小説を読むとか、文章で日本の政治を知るといったことだったのが、いまでは情報ツールで多様に発信され、子どもたちは、活字や文字でよりもそちらからたくさんのものを受けている。バーチャル体験の質と速度みたいなものも変わってしまい、早い時期からバーチャル体験が可能になった一方で、感覚を通しての身体的な体験というのは減少している。このバランスを回復すべきか。それとも人間の体験は、太古からある方向をもって変わってきているのだから、バーチャル体験の整備が必要だと考えるべきなのか」 安西「体験とか経験という言葉自体が哲学的だが、自分が主体的にというか、自分が何かしようと思ってやったかどうか、が分かれ道になるような気がする。私どものところでは感動ネットというのを走らせていて、『CAN DO ネット』と書いて感動ネットと読ませる。ウェブでアクセスできるようになっていて、例えば、法律家になりたいという子どもがいて、弁護士というのはどういう仕事を毎日やっているのか知りたいという。そういうことを言ってきた時点で初めて弁護士さんを探し、1日そこに行って見学してごらんというのをやる。あるいは自転車で箱根の山を越してみたいとか。先生がおぜん立てしてやるのではない。そういうことをやる場が、本田さんが言われるように学校が相当の時間を占めるようになって、学校外の時間がなかなかとりにくいということが体験の少なさにつながるのではないか」 「先生がこれをやりましょう、あれをやりましょうというのは、いわばカリキュラムの延長みたいな話だ。そうすると、意図が空回りするというか、ギャップが埋まらない。やってみることで初めてこういうことだとわかる世界があるのだけれども、バーチャル云々というのは、やらないでいろいろなものが入ってくる。『ああ、世の中はこうなんだ』と思ってしまう。育む余地を自分で切ってしまっている面も少なからずあるのではないか」 「心を育むということを考えたとき、体験や感動しかないのではと思う。バーチャルとかの考え方があるが、子どもたちはいろいろな情報をとりあえず知っている、とりあえずですね、そこがポイントじゃないか。心というのは、脳科学的なアプローチは、すとんと『ああ、なるほど』と思ってしまうところがある。古典的な解釈でいえば、心というのはゴムまりのように弾んでいて、知っているというだけではなくて、それがすとんとわかって初めて、人間として成長していくのだと思う。心というものが感動を伴って揺すられる。そういうことによって人間は形成されていく。 私はフランスのアンリIV世高等学校で哲学の授業を参観したことがあるが、先生は、あなたはどう考えるのかの一点張りで絶対に教えない。生徒たちは、歴史上の偉大な哲学者はこういうふうに考えたと言うのだが、先生は、じゃあ、あなたはどう考えるのかと質問する。生徒たちが考えることのモチベーションを持ちながら、一つの結論を出していく。日本の授業ではあまりない。学校というのは、私たちの若いころの人生では巨大な時間を占めているので、やはりそういうところが大事かなと思う」 「私はパリに3年ほどいて、子ども2人はフランスの学校に行っていた。フランスの学校というのは大変な詰め込みで、子どもは朝8時半から夕方の5時近くまで学校にいる。習うことはフランス語と算数のふたつだけ。フランス語は、詩を覚えるとか、文法や書き方を覚えるとかみたいなことをやらせていた。あれはすぐれた教育方法ではないか。 先ほどの夢を持つ、目標を持つという話とも絡むのだが、人間は3つの要素が人格を構成していて、1つは『学びて思はざれば暗し』という言葉がある。『思ひて学ばざれば危うし』という言葉もある。不言実行という言葉もあるから、学ぶことと思うこと、行うこと3つがそれぞれバランスがとれることで、立派な一つの人格を形成するのかなと思う。 また、人生を幼虫の時代、さなぎの時代、成虫になる時代と3つに分けて考えることができるのではないか。学生時代は幼虫で、就職したころにさなぎになった。そこで考えるのは迷うことばかりで、こんなところに一生いていいのかとか。ただ、その間、社会に出て学ぶことといえば、人間を学ぶという要素が加わってくるように思う。40歳ぐらいになって、ようやく学ぶこと、思うこと、行うことが一つのものの別々の側面だというふうになったような気がした。最近の子どもたちを見ていて思うのは、どうも次の学校に入ることみたいなものが目標になってしまっている。夢がとても彩りの少ないものになってしまっているところに、今の問題の原点があるのかなと、それは学校教育の効率と関係しているのではないかなと思った」 「本田さんの、消費者投資対象としての子どもの発見ということは、大変に大きな問題ではないか。市場原理で売れればいいと、残酷で暴力的なゲームソフトを平気で売る。親のほうは、みんなが買うならいいわよと買い与えたり、それで遊ぶのを黙認していたりする。大人がというか、良識のある人たちが何か手を打たなくてはならない。一方、何か規制をすると、規制という言葉が極めて広く、しかもあいまいにかつ都合よく、いろいろな方々に解釈され過ぎている。そういうことをしようとすると、必ずそれはいけないという声も上がる。どうしたらいいだろうかと心配している」 本田「私も同じようにどうしたらいいだろうと考えている。市場原理がなぜこんなに単純に、私たちの世界を支配してしまったのか。マーケティングの理論と効率主義が、全体を覆ってしまった。だから少子化の問題が議論されるときも、少子化がなぜ困るかというと、将来の年金問題として出てくる。マーケットからいうと、子ども産業が疲弊するという形で出てきたりして、当の子どもがどう成長していくかという思想がない。メディアも野放図にいろいろなものを流して、批判が出てくると小手先の対応をする。全体の仕組みそのものを考える発想がない。 確かにフランスでは小学校や幼稚園にグラウンドなどはない。学校は勉強をしにくるところだからということで、狭いところに子どもが入って勉強する。それに対し、戦後の日本は、子どもが学校で勉強だけするのではなくて、さまざまな生活体験をするんだとか、いろいろな要素が学校教育の中に入ってきた。明治の学校などはもっと読み書き算数を一生懸命したのではないか。だから、私は個別問題というよりはシステムの問題かなと思ってしまう」 「いわゆるテレビゲームとか、バーチャル体験等々を乗り越えていくのは、極端な場合には規制もあると思うが、やはり自然の環境、人間との対話、そういうことのための時間と場をとにかくつくっていくことが大事だと思っている。宗教の問題にしても、日本は一神教もあるけれども、もともとは多神教というか、そういう感じがある。そういうもとでの物質文化というか、日本固有の歴史と文化に根差した方向性を見つける必要がある。 いわゆる教育のシステムをデザインしていくときに大事だと思うのは、人間というのは何か一つのことを思い始めると、ほかのことを排除する傾向がどうしてもあり、ゆとりの教育ということと、きちっと教育するということは背反するとみんな思ってしまう。両方をちゃんと入れ込む設計ができるはずだ」 「体験とか経験によって心は育まれる、成長するということは、全くそのとおりだと思う。学校教育のことが中心に語られているが、学校教育は人生約80年の中で約16年間でしかない。6・3・3・4というのが一番多いパターンだろう。人生はいろいろ変化していくのだが、生まれてから最後まで、横についているのが家庭だ。夫婦だけだったり、場合によっては一人だったり、親子だったり、何世代にわたる大家族が、生まれてから死ぬまで横にくっついている。その家庭の中でどういう体験をしたのか、あるいはどういう経験をしたのかということが、やはり最終的には心がどのようにして育まれてきたかを決定づけるのではないか」 「バーチャルな体験か、実体験か、リアルな体験かということだが、どの生き物も情報の中、物質の中で動いているわけで、自分の側に受容体、リセプターというものが必ずあって、そのリセプターがある場合にはちゃんと受けとめるけれど、リセプターがないものは受けとめられない構造になっている。ただ、自然界の場合は、自分の体で体験するのでおのずと自分にリセプターがあるような体験しかできないようになっている。子どものころにすごく広い場所で遊んだつもりだったのが、大人になって行ってみると、こんなに小さな公園だったのかと思うことがある。自分のリセプターが受けとめられるステップに合わせた体験をしていたわけだ。 皆さんが『体験』といわれていることを、少し別の言葉でいうと『遊び』になる。遊ぶ生き物というのはなかなかいない。普通の生き物は遊んでいる暇などないし、遊ぶためにはすごく上等な脳の働きがないといけない。チンパンジーぐらいになると遊ぶけれども、大人になったら遊びません。大人になっても遊んでいるのは人間だけ。私は人間という生き物は最後まで大人にならない生き物じゃないか、死ぬまで子どもの生き物なんじゃないかと思っている。遊びということが人間らしさのものすごく象徴的なものだと、ほかの生き物を見ていると思う。特に子どものときだが、自分をつくるためには学ぶよりは遊ぶほうがずっと複雑で、本質的なことをつくり上げる方法だと思っている。遊びをもう少し考えるのも一つの方法かなと思う」 「私は遊びがすごく大事だと思う。人間は体を拘束すると、精神が自由化する傾向にある。だから座禅みたいに体が動けない、座っていると精神が浮遊して、自由にいろいろ遊ぶような気がする。したがいまして、徹底的に学校で拘束し、詰め込み、効率的に知識をたたき込むことによって、学校でない時間、拘束されていない時間を確保してやれば、その時間は極めて活性化した時間になると。遊びは教えることができないから、本人に任せるしかないのだが、自由時間を確保してやる。そのかわり反対の時間、拘束されている時間は、これ以上ないというくらい徹底的に締め上げる、詰め込む。私はそれが、いいんじゃないかなと思うが、いかがでしょうか」 「ほんとうに教育の仕組みをデザインしようとすると、そういうことはあり得るわけです。いわば人間としての高次の精神を発揮しようと思えば、最低限の知識というのはきちっと持たなければならない。詰め込みと言われるけれど、そういうことのための鍛錬というのだろうか、それをやらなければならない。一方で、体験というのはいろいろな場で多様に積んでいかなければならない。それが両立する時間のとり方とは、仕組みとしてはあり得ると思う。そこから相当隔たったところに今は来ているので、どうやって持っていくのかが政策としては課題になってくる。実体験とバーチャル体験の違いは、実体験のほうが圧倒的に情報量が多いという点にある。人間というのは極めて複雑で、それぞれが個別に違う。その違いが体験されないということが非常に大きい」 「詰め込みだけが学校ではないし、ゆとりだけを目標にしてもしっかりした実力はつかない。どうバランスをとっていくか。それとの絡みで、私は社会が転換点に来ているということに大変共感を覚える。つまり一つの価値だけを求め過ぎて、その目標達成ということに力を尽くしてきたのが20世紀後半ではないのか。いかに利潤を上げ、世界一の経済大国になるかということで努力し、成功を収めてきた面がある。だが、それでほんとうに豊かになったのだろうか。ほんとうの豊かさ、幸せを社会で実現していくには、その価値というものをどういうふうに転換していったらいいのか。そういうことを論ずるべき時期にきているのではないか。 その意味で戦後60年というときに考えてみたのが、このフォーラムです。大きな転換の起爆剤に、皆さんの英知が作用できるようにしたい。そのためには相当戦略的に考えないといけない。うまく戦略的に本物の成熟社会というものにしていく、そういう仕組みはどうあったらいいか。個人の価値観も、社会全体の価値観も、そういうふうに持っていくにはどうしたらいいか。議論の後半、秋以降は、家庭はどうあったらいいのか、学校は、メディアは、あるいは企業は、NPOとか地域社会はどうあったらいいかという順序で、方法論に入っていきたいと思う。 安西さんのお話を聞いていて、人間として求めるべき心というか、独立と協生という言葉にまとめていただき、大変明確になった。 1970年代ぐらいまで、日本人は、他者に影響されて自らの価値観がないというのが問題とされていた。私はそのころ、世界青年意識調査というのにかかわっていたが、日本の青年の意識としては他者に深入りし過ぎるというのが特徴だった。それが現在は、むしろエゴが発達し過ぎてしまったという大きな変化があった。他者をむしろ無視したり、他人を傷つけたくないからと携帯と向き合ったりというようなことになってきた。そこのところの変化をどう見るかということだと思う。戦後60年間に、どうしてこういう大きな変化が起きたのか。それを大きく転換させようとするなら、その変化の原因を分析した上でやっていかなければならないと思う」 「ある芸術系の大学の先生と話をしていて、こういうことが話題になった。私は、いろいろな分野の古典的な作品には感動するが、現代芸術ということになると、なかなか感動までいかないんだよと。古典がもし感動体験であるとすると、現代芸術は何体験になるのだろうかと聞いてみた。 その人はしばらく考えていて、感動する体験というのは古典を鑑賞するときには重要だということはわかるけれども、さて現代芸術といわれると、自分も返答に困るのだが、あえて言えばそれは刺激だと、こう言ったのです。胸にすとんと落ちた。その中には感動的な作品もあるわけだが、多くは刺激的な要素で我々は心を動かされる。そう思ったときに、現代社会がさまざまな方面から送り続けているさまざまなメッセージがあるが、そのほとんどは刺激的なメッセージではないかという感じがしてきた。新しい刺激的なメッセージ、イメージが繰り出され、いわば日常化していく。それがいわゆるバーチャル体験の基本になっているのかもしれない。 そういう刺激体験というものを、そろそろ反省する時期にきているのかなという感じがする。社会的にも、人間的にも有用なものがたくさんあると思うが、それを規制していく、そういう大人の態度、社会の態度というものはやはり必要だろう。 その場合、規制するシステムには2種類あるのではないか。1つは法的な規制でしょう。一面では人権等の問題を含め、すべてのもののタブーが排除されてきている社会だが、しかし同時に、放送とか新聞などで、その言葉を使わないようにしてくださいという規制がどんどん働いてきているということがある。そういう矛盾した状況の中で、刺激的な装置、イメージというのが氾濫し始めている。どこかで本質的な法的規制が必要になる。 お上による規制というのは、国民はそうそう納得して従うものではないから、もう一つどうしても重要な規制のシステムというのは必要だと、私は思っている。それがいわゆるモラルとか宗教の側から来る、いわば天からの呼びかけとしての規制のシステムというものをどう組み立てていくか、社会的に合意形成していくか、そういう問題だろう。その2つのものを立体的に構成することができたときに、このフォーラムの提言というものが一つの基礎を持つことになるのではないか」 「ルールということになると、その前提として論理が必要になる。説得力という問題になってくる。合意ということが必要で、論理とか合意以前の声があるよということも教えなくてはいけない。ここが難しいところですね」 「道徳教育というか宗教教育は、結局排除してしまいましたからね」 「フランスで学ばれたのはフランス語と算数だけというお話があったが、私はそれで十分だと思う。国語とか英語とかから歴史も学べるし、いろいろな社会科学系は学べます。算数をやれば自然科学も入ってくる。その中で欠けているのは、今、おっしゃっていたモラルだと思う。宗教とか、倫理とかは、果たして教育だけで学べるだろうか。学校教育だけにすべてを求めるのは非常に難しい。特にモラルとか、宗教とか、天の声をどういうふうに学ぶのかということになると、とてもではないけれど教室ではできない」 「ルールとモラルは、そのとおりだと思う。このごろの例でいうと、お金を動かす経済というのは、ある種のバーチャルですね。ルールは守るけれども、ぎりぎりのところでやってしまえば勝ちみたいな風潮が、今の世の中にものすごくある。バーチャルだとできてしまう。これが私はとても気になっている。経済界の方はどうお思いになるのか」 「建前では株主のために経営することになっている。だけど株主のために経営するのは何かというと、毎日毎日の株価の総額を最大限にするようにやれということなのです。それが本当に正しいかというと、10年株を持ってくれる株主がいるかと思えば、バーチャルなマネーゲームで毎日売り買いをしてもうける株主もいる。アメリカ型ビジネススクールの弊害の部分が、非常に強く影響力を及ぼしているのではないか。どこかで変えなくてはいけないのではないかと言っております」