活動レポート

第9回有識者会議 基調講演:西野真由美さん(国立教育政策研究所教育課程研究センター総括研究官)、福島博子さん(さいたま市立内谷中学校教諭)

基調講演 1

「学校における育むべきこころとは」西野 真由美(国立教育政策研究所教育課程研究センター総括研究官)

h20060217 最初に子供の声を1つご紹介したい。私どもの研究所が行った道徳教育に関する調査に、中学3年生の子が書いてくれたものだ。 「道徳という授業が何なのかわかっていない人が多いと思う。物語を読むことはしたけれど、自分の意見を発表する、話し合うなどということは全然やっていない気がする。今の状態では、授業というよりも、ああ、道徳だ、ラッキーぐらいで、みんな適当にやっていると思う。押しつけがましいのは嫌だけれども、もう少し道徳というものに力を入れてほしい。道徳はとても大切だと思う。興味があるから、そうしてもらえるといい」
中学3年生が道徳の授業を楽しいと思う割合は低い。でも、授業が楽しくないと答える心の中には、ほんとうのことをもっと勉強したいとの思いがあるのではないか。 学校は知識を教える場であり、心の教育、道徳教育は家庭で行うものだ、という意見がある。私は、学校とは家庭と社会をつなぐ場であると思う。家庭で愛情をもって育てられた子供たちが社会に出て、いろいろな人と出会い、自分もその1人として生き、自分を実現していく。そうした生き方を身につけるトレーニングの場として学校はあるのではないか。学校には、家庭や社会とは違う心の教育の役割があると思う。 だが、学校教育には限界がある。宗教がどれほど重要な位置を占めようと、公立学校で特定の宗教に基づいて教育を行うのは難しい。公立学校での道徳教育は世俗的なものでなくてはならない。社会で、立場も宗教も価値観も違う多様な人たちと一緒に生きていくことを学ぶ意味でも、特に公立学校では、心の教育は世俗的でなければならないと考える。 もう1つ大事なのは、学校とはもちろん学びの場であるということだ。問題は、知識を学ぶということと心を育てるということを切り離す考え方にあるのではないか。 最近は、学ぶということには心の働きが大きな影響を与えることがわかってきた。子供たちはいつ学ぶ意欲を持つかを調べてみると、2つのことがわかった。 1つは、仲のいい友達と一緒に学ぶことだ。子供は、親しい友達ができたり、学級が過ごしやすい環境であったりすると、もっと勉強したい、この中でもっと学びたいという気持ちが育っていく。もう1つは、将来への夢を持つこと。自分は何になりたい、こんな仕事をしたいという思いを持ったとき、学ぶ力はとても大きくなっていく。 学びと心を切り離し、どっちが大事か、どっちを重視するのかと言っている限り、学ぶ心、学ぶ力は育たない。学校教育において心を育てるということは、学びを基本として、社会で生きていくために学ぶ心を育てるというのが基本的なあり方であろう。 では、学校ではいま、どう心が育てられているのか。 学校における道徳教育は、道徳の授業だけで行うものではない。学習指導要領では、道徳教育は、国語や算数などの授業や学校行事、つまり学校での生活の全体を通して行う、とある。道徳の授業は、学校教育全体で行う道徳教育を補い、深め、まとめることにある。道徳教育の主役ではなく、全体の活動をサポートする存在と位置づけられている。 道徳の授業の実態だが、取り組みに個人差が大きいことがしばしば指摘される。私の後に報告される福島先生のように道徳の授業が大好きな先生もいらっしゃれば、関心をまったく持たない先生もおられる。 調査では、「道徳教育は大切」と言う先生が圧倒的に多いが、「難しい」との声も多い。子供たちも「大切」と言う子が多いが、「楽しくない」という意識がある。「大切だがつまらない」と子供たちは思い、「大切だが難しい」と教師は敬遠しているのが実状だ。 では、「楽しい」と子供たちが思うのはどんなときか。子供たち自身は、いい教材に出会えたとき、友達のいろいろな意見を聞けたときだという。作品とのかかわりを自分が持てたとき、友達とのかかわりを持てたときに、授業を楽しい、よかったと思うのだ。 学習指導要領では、道徳教育の中身は4つの視点に分かれる。自分自身に関すること、他の人とのかかわりに関すること、自然にかかわること、社会にかかわること。道徳教育とはかかわりに関することを教えよう、学ばせようとしているのがわかると思う。 道徳教育が難しいと思われてしまうのは、このかかわりがつくり出せないためだ。作品との出会いを持たせようと思っても、おもしろがってくれない。問いを子供たちに投げかけても、シーンとなってしまう、かかわりができてこないところに難しさがある。 しかも、先生方の中に道徳教育を通して子供たちをどう育てていくかという話し合いがない。思いを語り合う場もない。かかわりをつくらなければいけないのに、かかわりをつくること自体が難しい。かかわりをどうつくり出すかが一番の課題になっている。 お見せする資料では、命の大切さを教えていこうと獣医さんをお呼びし、ウサギの育て方を教えてもらい、社会とのかかわりをつくり出している。こんなふうにかかわりをつくり出す授業というのが、道徳教育の難しさを乗り越える道の1つかなと思う。 道徳教育の難しさでは、価値観の多様化も挙げられる。子の、親の価値観が多様化する中で、どう教えていけばいいのかと。ただ、世界的に見ると、価値観が多様化する中で共通の価値を求めていこうという動きが出ている。この資料は、西オーストラリア州で学校教育のために共有できる価値をつくっていこうと作成された。学校に対し、これでやってくださいと言うのではなく、これを参考にしながら学校で共通の価値をつくってくださいという取り組みだ。 共通の価値をつくるという過程を大事にし、学校教育がいろいろな教育活動とかかわりを持ちながら、子供たちのかかわる力を育てていくことが求められている。

基調講演 2

「孤から個へ 『共に生きる力を育む道徳授業』への一考察」福島 博子(さいたま市立内谷中学校教諭)

20数年、学級担任として道徳の授業に取り組んできた。西野先生から「かかわる力」というお話があったが、私も現場で同じ事をずっと感じていた。他の人とどうかかわっていくかという力が残念ながら弱くなっているのではないか。 道徳の授業は他教科と同様、きょうは「基本的生活習慣」の項目を、きょうは「思いやり」の項目をというように、1こま1こまを1時間の授業でやっていくことが多い。だが、教師も子供たちも、「そういうことって大切だよね」「もう少し話したいな」と思ったときに、授業が終了してしまう。それを何とか解消する中で、双方に意義のある時間にすることができるのではないか、というのが私の基本的な考えだ。 言葉にすると、「孤から個へ、そして成熟した個へ」となる。自分を大切にし、自己の生き方を他者とのかかわりの中で見つめる力、自他の生命を大切にし、ともに生きる喜びを感じる心。こういう力、心を年35回の授業で子供たちとかかわる中で、つけていけたらと願い、実践してきた。 道徳の授業が特設されて随分たつが、週の中に1時間の授業があることで、逆に浮いてしまっている感じがする。資料を読み、話し合い、考え、友達の意見も聞き、教員の思いも伝え、ときには外からの「ゲストティーチャー」の話を聞く。1時間の中ですべて網羅しようとすることに問題があるのではないか。総合的な学習の時間や特別活動、行事、他教科の時間と組み合わせ、響き合わせる中で授業をつくっていきたい。 学習指導要領に示された23の内容項目を機械的に割り振るのではなく、学校なり、担任なり、学年なりの思いを前面に出して、どういう力をつけたいか、どういう子供に育ってほしいかを明確にしていく。例えば、「命」について考えていくことは、基本的な生活習慣について考えることであり、思いやりについて考えることでもあり、社会と自分について考えることでもあると思っている。 実は、ここ数年間、「命」「働く」ということなどを中心に取り組んできたが、最近は、「自分の国を愛する」ということを考えている。なかなか学校としても教えにくく、自分としても自信がないところがある。 ただ、このことを抜きにして命を教えられるのだろうか、思いやりを教えられるのか、という思いもある。自分の学校が好き、自分のいる場所が好き、自分のことが好き、そういう気持ちを育てながら、食育、伝統、日本の国への心も育てていけるのではないか。 道徳の授業では、教科の授業では見えなかった、子供たちの思いが見える。生徒は言葉に詰まったり、ときに涙をこぼしたりする。生徒と私たち学級担任だけしか共有できない貴重な時間だ。それを大切にしていきたい。 学校全体で取り組む道徳教育とお話ししたが、子供たちも、先生たちも、もしかしたら道徳の時間も、全体の中で「孤立」の「孤」になってはいまいか。 教師の専門性の向上ということで、例えば新しく始まった特別支援教育については、いろいろな学習が国や市でも行われている。道徳も大きな役割を担うが、特にプロジェクトとして力を入れてというのはないように思う。 各学校に1人は道徳の専門家がいるというふうになったら、どんなに心の教育は発達するのかなという思いも持っている。

自由討議

「学校での道徳の時間は、教科ではなく、特設という形で時間割に組み込まれ、ぬえ的な性格を持っているように思える。指導要領などはよくできているが、これに沿って授業が行われると総花的に希釈されてしまう気がする。『命』は、3番目の柱『自然への畏敬』に入るが、自らを殺さない、他者を殺さないということが徹底できるかどうか。 命の問題は、理屈を超えて、殺してはいけないと繰り返し繰り返しインプットしてしまうことが必要ではないか。一番基本的、重要なものは、むしろ大人の立場で繰り返し、1つの価値として教えることがあってもいいのではないか。 もう1つ。『心のノート』だが、ああいうものをつくることへの現場、あるいは教育学者の抵抗が非常に大きいことにびっくりしたことがあった。現場で使われてどうお感じか、有効に機能しているのかどうか、うかがえたらと思う」 西野「そのとおりだと思う。学習指導要領の中から学校が重点とする内容、重視したいことを取り出し、計画を立ててほしい。うちの学校では命についての学習を年間通して取り組んでいくとか。学習指導要領もそういう形で役立てばいい。学校で道徳の授業をやらなければいけないというので、とにかくこの目を順番にやっていくことで定着を図ってきた現実がある。次のステップに行ききれていないのかとも思う。 道徳教育とは徳目を教えるのではなく、道徳性を教えるのだと思っている。今の自分がよければいいという見方から、かかわりを持つ見方に広げる。今の自分ではない将来の自分、あるいは、ほかの人の立場、ほかの人の視点でものを考えてみる、将来の自分の視点から今の自分のあり方を考えてみるというふうに、自分の視点を広げていくことが道徳性を育てる基本と考えている。 視点を広げていく際の指針として、いろいろな徳目がある。だから、徳目のそれぞれの視点から自分の生き方とか、自分のあり方というのを考えるというのが、道徳の授業の基本的なスタンスであるべきだ。 ただし、それとは別に、先生方が、人は絶対に殺してはいけない、自分の命は大事にしなければいけないと、自分の信念として教えていくことはとても大切なことだ。日常における道徳教育であると思う。その力が一番強いのは実は家庭だと思うが、学校でも、先生が繰り返し繰り返し言っていたあの言葉が忘れられない、ということはたくさんある。日常の指導の中で大事にしていかなければいけないと思う」 福島「『心のノート』だが、有効に活用している。体験を振り返ったり、授業をまとめたり、他の授業で学んだことを道徳の時間に生かすときなどに活用している」 「道徳の時間とは全体の補完的な役割を果たすということだが、そうなると、先生が力を入れても効果は限られているのでは。道徳だけに力を入れるのではなく、全体の教育システムの中で取り入れることをしないと大きな効果は求められないのではないか」 西野「ご指摘のとおりで、校長のリーダーシップを道徳教育では繰り返し言っている。道徳教育の研究校を引き受けるにしても、校長先生が、難しいからと迷ってしまっては実践がうまくいかない。文部科学省も校長先生に向けたアピールとか指導等をしているが、学校差が大きい。学校のビジョンをつくるという視点から、学校づくりとして心の教育をとらえてもらう。校長先生への啓発活動をしていかなければいけないかと思う」 「日本の国、日本という国家とのかかわりについて、教え方が難しいと話されたが、中学校の学習指導要領の23項目を見ると、国という言葉は最後のほうに出てくる。自覚を持って国を愛し、国家の発展に努めるとともに云々と、ここだけだ。 我々が日の丸を見るのは、大体がオリンピックのときで、日本国内ではあまり見ない。道徳の時間、あるいは全教科の中で、国旗、国歌というものについてはどういうふうに位置づけられているのかをお聞きしたい」 西野「国旗、国歌という言葉自体が出てくるのは、特別活動という領域が学校教育の中にはある。その特別活動の中には学校行事が入っており、入学式、卒業式などの儀式的行事という領域がある。そこの中に国旗、国歌の取り扱いに関する規定がある。社会科の中でも、そういった内容について教えるという規定がある。道徳では、国旗、国歌という言葉は、例えば国旗に対する何か敬意を持つようなという文言はない。国旗、国歌というのが従来ずっと日本の学校教育の中では論争的なテーマだった。宗教もそうだが、いろいろな考えがあるものについて、1つの立場を強制する書きぶりはできるだけしない。 いろいろな立場の人が道徳教育の中で取り組んでいけるようにという意味で、このような、自覚を持って国を愛しというしっかりした書き方になっている。国旗を敬えみたいな、行為に直接結びつくような記述は道徳の中ではない。国を愛するということについて、自分がどういうあり方で国を愛していくか、そのあり方を自分たちで考えて、学校の中で考えて育っていってほしいというのが道徳教育のスタンスだと思う」 福島「難しいところもあるが、今自分のことが嫌いではない、自分が好き、今自分のいるクラスが好き、この学校が好きという延長上に自分の国が好きと思える子供たちを育てたいなと、私は思っている」 「日本でいま、いろいろな問題が起こっている、ほうっておけないという認識がこの会合の出発点になっている。現状の認識だが、何に特に注意してごらんになっているか。そのために、広い意味での道徳教育で結構だが、どこに力を注ぐべきなのか。もう一段、具体的に踏み込んだご見解をお聞きしたい」 西野「参考資料として国際学力調査の結果を出した。日本の子供たちの数学の学力は実は高い。高いけれど、楽しいから勉強しているわけではない。将来の仕事に関係しているから勉強しているわけではない。これから勉強することに必要だからでもない。では、なぜ勉強しているのか。それは、上級学校に進学するという、その目的のためだけだ。 つまり、学ぶということが自分の将来とか、自分の生き方とつながっていない。短期的な目標、直接的な自分の目標にかかわっていることで勉強するが、それが終わってしまえば、もう数学は要らないとなってしまう。 学ぶことと心が結びついていない。数学を学ぶ、科学を学習する、理科を勉強することが、自分の生き方、自分の将来の姿と結びついていく学習であってほしい。そういう学習ができる心を育てるのが、学校における心の教育の大きな目的だと思っている。科学者がどんな生き方をし、科学への情熱を持ち、社会の中で科学を生かしているのか。私たちは数学の公式を覚えるだけだが、その公式はだれがどんなふうにつくったのか。数学者はどんな生き方をしていたのかということも含めて、自分自身の価値観や生き方につながるような学習であってほしいと願っている。 そういう学習を学校教育の中で育てていくことが、実は道徳教育を孤立させない。道徳の時間だけで収束してしまうものではなく、学校教育の全体の中で行うということにつながるのではないか」 「道徳とか倫理は、社会のあらゆる場所できちんと定着させなければいけない。学校で道徳教育をするのなら、先生が信頼されていなければいけない。それが果たしてできているか、大変憂慮している。子供たちに尊敬される人がやらなければいけない。我々が子供だったころは、おじいさん、おばあさんがその役割を果たしていた。 学校では、校長が責任を持ってやらなければいけないと思う。みんなが校長先生を尊敬し、信頼していたところに効果が出ていた。果たして今の先生たちは生徒たちに信頼されているのか。精神的な支柱に、先生がなっているのか。それがなければ、道徳教育というのはなかなか実効が上がらないのではないか」 西野「私は道徳が教えられるほど立派ではありませんと、学校の先生がおっしゃる。立派な人間というのはどういう人間か。立派でなければ教えられない、教える以上は先生が立派でなければと言うのは、余計なプレッシャーを先生方に与えるのではないか。 先生も社会の中で生きているわけで、生きている先生の姿を見せてほしい。私はもっと先生方を信頼したい。というのは、先生になる方というのは、皆さん、子供を愛している。そういう先生方を私は信頼したいし、先生がだめだからという立場に立ちたくない」 「リーダーは、きちんとしたリーダーシップを持ってやらなければいけない。みんな仲よくではだめだと思う。だれかが精神的な支柱として存在しないと、社会は成り立たない」 西野「リーダーシップにもいろいろな形があると思う。校長先生も、自分で引っ張っていくタイプの方もいるし、いろいろな人の意見を調和しながら進めていく方もいる」 「何も権力を行使しろと言ってはいない。ですが、校長先生たるもの、学長というのは権威がなくてはいけない。みんなが尊敬する、信頼する存在でないと社会というのは成り立たないと思う」 西野「権威に対して、今の特に若い人たちは嫌悪感を持ったり、避けたりしているが、教師の権威というのはある。教師が権威的な存在、正しい権威というものでなければならないというのは、そのとおりだと思う」 「学問の深みとか、思考力の広さとかが生徒なり、学生に伝わらなければだめだと思う。そういった人をきちんと育て、しかるべき地位につけていくということは大事だろうと思う。試験なんかではだめだ」 西野「個々の先生方の持っている思いを何とか教室の中で伝えていってほしいというのが、私自身の願い。先生なら、だれでも持っている子供に伝えたい思いを伝えていく場が道徳教育だと。学校としてのビジョンとかバリューを明確化していく、あるいはメッセージとして学校が発信していく。保護者とか地域に対し、うちの学校はこういう学校ですという発信力がなくてはならないという意味で、リーダーシップが大事だというふうに受け取らせていただきたい」 「きちんとした人がそれを言わなければいけない。教科なら、ある種のテクニカルなことで補えるが、道徳教育はだれもができない。きちっとした先生を校長に据え、その方に責任を持ってやっていただくことが大事ではないか」 「子供たちが学校にいる間は、友達との関係もつらいことが多いだろうが、相対的に授業時間よりは友達との関係のほうが楽しいという結果がある。子供たちの幸福感とは、なぜ学ぶのかという動機づけがしっかりしていないと、なかなか幸せには。動機づけを自分で持って学ぶということができないのかなという気もする。 それと、道徳をぱっと気づいてもらうには、これは人生そのものだと思う。地域の中の大人たちに登場してもらい、そういう方々に人生を語っていただく。教科書で感動する子もいるが、一番吸引力があるのは、人間そのものが登場したときだ。ボランティアでいろいろな大人を授業の中に入れていただくことも、最近は文科省でも許しているので、そういう機会をもっと利用されたらどうか」 「NHKの教育テレビでは、身体障害者とか介護の問題とか、集中的に取り上げて放映している。ああいう番組をつくるときに、学校教育における道徳の授業の支えになればといったような発想があるのかどうか。私は、十分なると思って見ている」 「新宿区だったか、障害のある方を特別非常勤講師として教育委員会に迎えた。子供たちと対話したりして、非常に大きな成果を上げていると聞いた」 「NHKに『ようこそ先輩』という番組がある。ある中学校の大先輩が来て、今の孫みたいな子供にいろいろ語りかけている授業がある。ああいうのはいい、まさに総合的な道徳教育だと思う」 西野「ゲストティーチャーとか、ボランティアティーチャーとか、地域で活躍していらっしゃる方をお呼びして授業をしていただく。それこそ強いキャラクター、リーダーシップを持つ方をお呼びして、その人の生き方から、その人の言葉から直接学ぶという授業はかなり増えている。子供たちはお客様が好きなので、評判もいい。金沢市は、教育委員会が獣医師会と提携して学校にお医者さんを派遣している。教師にはできない分野なので、外の助けを借りながらやっていこうと。例えば命の大切さを学ぶときに、助産師さんに来てもらうというふうに」 福島「ついこの間も、目の見えない方で、ピアノのプロの方に来ていただいた。ピアノの音色と語りが子供たちの心に響く、とてもいい時間だった。ゲストティーチャーなどという言い方をしているが、現場でも定着しつつある1つのスタイルかと思う」 「私たちは、いまの日本に問題があるのは、社会が心をはぐくんでいないからだという問題意識で集まっている。なぜ道徳教育が身につかないのか。これだけのことをして、なぜ身についていないのかを考えなくてはいけない。アメリカに住む日本人の家族から聞いた話だが、アメリカの学校では、いじめがあると先生が介入し、なぜそういうことが起きたのか徹底的にやるという。土曜日は日本人学校に行くが、いじめに遭ったと先生に言いに行ったら、それは子供同士のことですからと何も対応してくれなかったそうだ。 いじめの問題は道徳教育の一環で処理すべきことではないか。そこで初めて、友達とは仲よくしなくてはいけないとか、いいことと悪いことをちゃんとわからせる。そういうことがなぜ身につかないのかということを、もっと討議すべきではないか」 「日本の初等中等教育を見ていると、子供たち、あるいは先生方を含めた集団の中に入れないことによる孤というか孤立、不登校とか、いじめとか、そういうことも含めて一般論としてあるようだ。一方で、アメリカの初等中等教育を見ていると、今度は集団というよりも、個々の競争関係が小さいときから強くなっていき、個人がばらばらになっていく。その中で、取り残されることによる孤立が非常に強い気がする。 その日米の違いが、これは集団から外れてしまうということが、子供の社会だけではなくて、企業の社会、学校の先生の社会、あるいは官僚の社会、いろいろなところである。日本の今の大きな問題の根にあることの1つは、ある特定の集団に所属できるかどうかということがだんだん目的化しているような気がする。 孤から個への個を考えるときに、学校の先生から見て、道徳教育として他人を尊重する、他人とのかかわりを尊重するというときに、他人というのを集団としての他ということでなく、同級生とか、回りの子供たちそれぞれが、それぞれ輝いているのだということをどう教えていくのかが、非常に大事なことではないか」 「私たちは、徳目を考えるときには、必ずいいことを書く。道徳に限らず、私たちの社会でほんとうに大切なものというとき、少し前は、地球に優しくだった。その次には、安心ということを大切にと言うと、みんな黙った。今なら多様性の尊重と言うと、だれもがそうだ、そうだと。だれもが反対できない言葉を並べるというのは、ある種大切なこと自体が浮ついたスローガンに変わっていき、そこで思考停止となってしまう。なぜ安心が大切なのか、どういう意味で多様性が尊重されないといけないのかという、その問いをむしろ封じ込めてしまう危うさがある。 私たちが道徳とか道徳的な判断と言うときは、網羅的によいことを並べるのではなく、何がほんとうに大切なのか、何を忘れてはいけないのか、見失ってはいけないのか考えなくてはいけない。価値のパースペクティブというものを見ていくことが、その時代、その時代のほんとうの判断力というものなのではないだろうか。 もう1つ、だれも反対できないことに、命を大切にということもあると思う。私は、命を大切にというときに、例えば生き物との接触、飼育の体験を授業に導入していくというのは、それはそれで意味があるが、ただ、生き物を教材にするときは気をつけないといけないと思っている。最終的に、1つの命はみんなで支えないといけないが、最初からみんなで支えるということには違和感がある。 私は今でも、子供のときに犬にえさをやり忘れたことを夢に見る。ふと気がついたら、餓死寸前になっているという夢で、うなされたこともある。他の人であれ、他の生き物であれ、それを1人でそっくり引き受けるということがどれだけ重いことで、そして怖いことなかということだ。ウサギを1日預かって、朝、昼、晩、水とか食べ物を世話するだけでわかる。だからこそ、1人で他の1つの命をそっくり引き受けるというのは、人間にとって重過ぎるのだと。 その上で、命の世話は、育児であれ、介護であれ、飼育であれ、みんなで支えるのであり、1人で支えるのではないと学ぶ。その体験から学ぶことが意味を持ってくるのではないか。生き物の世話の体験を授業に持ち込まれるときも、そのあたりというのは1つ間違うと、逆に危うい経験になるのではないかなと思ったりする」 「子どもたちにいい教材を与えているにもかかわらず、ノーレスポンスで静かにしているという話があった。これは、そんなにおもしろくないことを、あるいは、わかり切ったことを口に出して言えるかという非常に冷めた考えと、ほんとうに何も考えていないか、考えていても表現する能力を持てないのか、その辺の分析が大事だと思う」 「道徳の指導要領を見るとすばらしいことが書いてある。私たちが集まっているのは、今、何か問題があるからだ。こういう美しいことをずらっと並べて、そうですねと言うだけではなく、批判的な目を持たないことには、この社会は変わらないだろうと思う。 批判の目を持つ、持たせるということが、道徳教育の一番基本なのではないか。文句の言えないようなことをどんどん言っても、ほんとうに考えるためには、現実を見なければいけないのではないか。もう1つは、人間で勝負するしかないということ。問題なのは、今、大人の顔をしているが、大人になれていない人が山ほどいる。先生は子供たちを好きというのはわかるし、非難するつもりはないが、やはり今の教育の中では大人になり切れていないまま先生になっている人もいる。私も実は始まりのあいさつのときには、必ずきちんとあいさつをしよう、事故を起こさないようにしようと、この2つだけ言う。 幼稚園みたいだが、実はこの2つが守れていれば、大人としての行動はとれると思っている。先ほどのかかわりとか何とかということは、みんなこの中に入っている。そして、結局事故を起こさないというのは、責任を持とうということ。 だが、立派な大人、例えば職人さんとか、いろいろなところにいらっしゃる。むしろ、そういうほんとうの大人に学校に来ていただいて、先生も一緒にほんとうの大人から学ぶという形の道徳教育というか、学校教育も考えられるのではないか」 「今までいろいろな意見が出たように、外からだれか大人を連れて来るとか、別の体験をさせるとか、方法論はもっとバリエーションがあってもいいのではないか。これを、そのまま学校現場の先生にやっていただくのは重荷ではないか」 「道徳というのは教科ではない。学校の中でぬえ的になっている。現実は、今ご発表になったよりは、もっと惨憺たるものだと思う。道徳などという時間は、道徳に使わないで、別のものに使われることもかなり多いと聞いている。ただ、戦後日本の混乱の中で、これは教科から落とされて、60年たって、まだそれでいいのかなという気はする。 やはり60年の間に社会が変わり、家庭のあり方が変わり、学校をめぐる周辺が変わり、子供たちが変わり、親たちが変わった中で、学校の道徳の取り上げ方が今のままでいいのかと。知を学ばせるのが第一の目的ではあるが、そこの大きな変革を、文部科学省の教育に責任を持つ部署が本気になって考える時期になったのではないか。 もう1つ、お話の中での『かかわり』『つながり』は大事なことだが、もとの自分自身をどう形成していくか、かかわりを持つための自己をどう形成していくかというあたりをどうするのか。それを現実に学校で実践化していくには、学校というものが今日の社会において果たす道徳、ないし心の価値の問題について果たす役割について、今のままでいいのかなということを考えてみたほうがいいのではないか」 西野「皆さん、徳目の表をごらんになって、これがなぜ身につかないのか、学校で道徳教育をやっているのにというご指摘があった。そのとおりだと思う。 なぜ道徳の時間などというものがあるのか。学びの中で自分自身の適性とか将来像を見出すとか、それが学校における心の学びの基本になっている。子供たちにどんな価値観を身につけてほしいか、学校として何を大事にしていけばいいのかを話し合ったり、考えたりするための中核になるのが道徳の時間だと思う。自分は何がしたいのか、社会の中でどんなふうに生きていきたいのか。自分を発見するということでもある。自分らしさを見出すというのも、かかわりの中で見出されていくものだと思うので、そういう場を与えるのが道徳教育と考えている」 福島「私自身、個人的な道徳授業に対する、道徳教育に対する思いは、教師が自分自身の生き方を子供たちとともに問い直すことだと思っている。教えるプロとして範を示す、後ろ姿でということを目指しつつも、ともに考えたり、ともに話し合ったり。教師も子供たちもまずは自分の気持ちを、未熟であっても伝え合うところから、道徳の授業をはじめ、自分自身もこれからまたさらに高いところを目指していけたらなと思っている」 「どうもありがとうございました」