活動レポート

第25回有識者会議 基調講演:竹内洋さん(関西大学人間健康学部長)

第25回BM ゲストスピーカー竹内先生 SANY0470 「こころを育む総合フォーラム」の第25回ブレックファスト・ミーティング(有識者会議)が4月13日朝、東京・千代田区の帝国ホテルで開かれた。 今回は、ゲストの竹内洋・関西大学人間健康学部長(歴史社会学、教育社会学)が「教養としてのユーモア」と題して、自身の豊富な体験に基づくユーモラスな報告を行い、出席したメンバーとの間で活発な意見が交わされた。 竹内氏の報告 要旨は次の通り。
こころを育むということを考える場合、私は「ユーモア」が大切ではないかと思っている。そう思ったきっかけかは、本のあとがきについて考えたことにある。あとがきにはいろいろなものがあって、”苦労自慢”というか、自分がいかにこの研究をするために大変だったかということを臆面もなく延々と書いている人がいる。いや、だれもあなたに研究してもらいたいと思ったわけじゃないんだから、そんなこと書いたってしようがないでしょと思うようなことを延々と書いている人もいる。それから”自虐あとがき”というのもあって、非常につまらない本だということばかり強調しているのもある。それだったら本を出さない方がいいんじゃないかと思うが。 私も多少、本を書いてきたけれども、あとがきで妻に謝辞を書いたことが一度もなかった。今の若い人はすぐ夫とか妻とか家族のことを書くが、私はそれが何か格好悪いと思ったので、ずっと書かずにきた。2005年に『丸山眞男の時代』というのを出した時、妻に「今度は謝辞を入れてもいいか」と聞いたら、黙っている。「今度ぐらいはちゃんと書きたい」と重ねて言うと、「そんなに言うなら」と言うので、そんなに言うなら書いてもいいと言うのかと思ったら、「そんなに言うなら、名前なんか今さら結構だから、まだ行ったことのない北欧へ」と言われて、一緒に北欧に行くことになってしまった。1カ月以上いただろうか。北欧は物価が高いから、印税では足りない。妻にしてやられた。それ以来、「妻」という字を見ると「毒」に見えて困る。 その時、ついでに行ったデンマークで、長くホテルで働いた中年の日本人女性に案内してもらった。なかなかウィットに富んだ人で「ホテルに勤めていると、客のお国柄がすぐ分かる」と言う。ハウスキーパーが掃除しなくてもいいほど部屋をきれいにして帰るのは、日本人とドイツ人。大きな荷物を持ってくるのがアメリカ人。そして、チェックインとチェックアウトの時に必ずユーモアを言うのがイギリス人だそうだ。私もイギリスは調査などで何度も行っているので、イギリス人のユーモアというものが、生活の中の「たしなみ」になっていることを以前から強く感じていた。 パブリック・スクールは昔、私の研究テーマの1つだったが、パブリック・スクールの教養というのは、身体化された教養だと思う。課外活動で必ずスポーツをやる。芸術活動みたいなものもある。マナーについて非常に厳しい。それから、リーダーシップ教育が本当に訓練されている。スポーツ、芸術活動、マナー、あるいは昔の日本で言う教練。教練が嫌だという場合はボランティア活動をやるという選択になっている。ブレア首相がパブリック・スクール時代にボランティアの方を選んだのは有名だ。スポーツといいマナーといい、身体に刻み込まれるようなものがパブリック・スクールの教養だと思う。 私は教養主義、特に旧制高校の教養主義についても研究した。いわゆる大正教養主義だが、教養主義と教養というのは違う。教養主義であっても教養のない人はいるだろうし、教養主義でなくても教養がある人はいるだろう。大正教養主義とか旧制高校の教養主義というのは、ハーベンというか、要するに所有の教養、”ためこみ系”だ。ただ、そういう教養主義にもいいところはあったと私は思う。「教養が邪魔する」という言葉はなかなかいい言葉であって、要するに含羞、リフレクションにつながる。邪魔をする教養というのは、旧制高校的な大正教養主義から出てきたものもあるのではないか。単にひけらかす教養と、邪魔をする教養というのがあったように思う。結局、身体知としての教養、いわば「感じる教養」ということが大切なのではないだろうか。 高等女学校の女学生の教養というのも、再考すべきだと思う。大正時代に「立身出世亭主と教養女房」という言葉がはやったが、その亭主というのは大体、旧制高校的教養主義だ。旧制高校的教養主義のなれの果てが立身出世亭主で、女学生のほうは教養女房で、これはハーベンのためこむ、ひけらかす教養ではなく感じる教養というものなので、きちんと身についていた。もちろん、社会的にいろいろなことが閉ざされていたということもあるだろうが、それがかえって感じる教養になったのではないかと思う。そういうことを考えてくると、かつては落語とか講談が国民的教養ではなかったか、と痛感する。 私は、この4月から関西大学の人間健康学部という新しい学部の学部長を務めている。引き受ける時、最初の考えではスポーツと社会福祉と、もう一つ「ユーモア」を入れて三本柱にしたいと思った。ユーモアなんていかがわしい、とユーモアのないことを言う先生もいるが、大阪といったら吉本(喜劇)で、吉本といったらお笑いなのだから、関西大学にそういう研究があってもいいだろうと私は思う。時間はかかるかもしれないが、いずれは学問としてユーモアを研究するユーモアコースというものを実現させたいと願っている。 そういう意味では、パブリック・スクールの教養にはユーモアも入っていると思うが、決して単なるカリキュラムの問題ではない、あえて言えばヒドゥン(隠れた)カリキュラムという形で伝達されるものと私は考えている。ユーモアということを、日本社会はもっと大切に考えるべきではないだろうか。