活動レポート

第42回有識者会議 基調講演:阿形恒秀さん(鳴門教育大学教授)

 「こころを育む総合フォーラム」の第42回ブレックファスト・ミーティング(有識者会議)が2月16日朝、東京・千代田区の霞が関ビル・東海大学校友会館で開かれた。ゲストスピーカーは、鳴門教育大学教授(臨床教育学)の阿形恒秀さん。生徒指導・教育相談の分野を中心に、学校教育のあらゆる場面における生徒と教師の関係性を研究し続けている阿形さんは、「いじめ防止対策と学校現場の対応」というタイトルで基調講演。いじめをめぐる最近の動向や本質について現実的な問題を提起し、出席した有識者との間で真剣な質疑応答、意見交換が行われた。阿形さんの講演要旨は以下の通り。


第42回ブレックファスト・ミーティング(有識者会議)

「いじめ防止対策と学校現場の対応」

鳴門教育大学教職大学院 基礎・臨床系教育部
阿形 恒秀 教授

 「いじめる」という動詞は昔からあった言葉だが、「学校で」「陰湿な」などのニュアンスを伴う「いじめ」という名詞が一般化したのは意外と新しく1980年代あたりからで、広辞苑では1991年版から掲載されている。80年代以降に一般化した理由は、そのころから社会問題化したということだ。その少し前は「荒れる中学生」というように、学校の窓ガラスが割られるような校内暴力が社会問題化していた。ところが、いじめ自殺問題がきっかけとなって、80年代半ば以降、ほぼ10年周期でこのいじめの社会問題化の波が来ている。最初の波は、1986年の東京・中野の鹿川君という中学2年生のいじめ自殺事件。「このままじゃ生きジゴクになっちゃうよ」という言葉を残してみずから命を絶った。1994年には、愛知県の大河内君という中学2年生が金品を要求されるなどして自殺。机の中に残された親宛のメモ書きに「114万200円 働いて必ず返します」とあった。この端数には本当に胸が痛む。おとうさん・おかあさんに申し訳ないという思いで苦しんでいたのだと思う。この事案がきっかけで社会問題化の2回目の波が起きた。第3の波は2000年代半ばで、福岡県でやはり中学2年生がいじめに遭って自殺した。また、このころ、いじめ自殺予告手紙が連続し、文科省、全国の教育委員会、学校は対応に追われ、文部科学省は「未来のある君たちへ」という大臣のメッセージを出している。

 第4の波が2010年代。大津市のいじめ自殺事件が国会でも大きな問題となって議論が始まり、2013年に現行の「いじめ防止対策推進法」が出来た。そして、この法に基づき、国・地方公共団体、そして日本のすべての学校で「いじめ防止基本方針」が策定された。このような状況の中で、私ども大学としても、いじめ防止に寄与しようと宮城・上越・福岡・鳴門の4教育大学で2015年度から「BP(いじめ防止支援)プロジェクト」という事業を進めている(BP…Bullying Prevention)。いじめ防止対策推進法により、大学も含めて社会総がかりでいじめ防止に取り組んでおり、法制定には非常に大きな意義があったと思う。ただ、大きな社会問題になればなるほど、対策的な対応にどうしても重点が移り、問題の本質をじっくり議論する点が弱まってしまうということがあるような気がする。

 いじめの問題が社会に認知されたのは大切なことだが、それを議論するときに、いじめ問題にどう対応するかという「いじめ対策論」と、いじめ問題から人間の本質や人間関係の難しさを考える「いじめ人間論」いう2つの観点があると思う。言い換えれば「施策・政治」の話と「教育」の話だが、社会問題になればなるほど、2つの観点の前者にどうも傾斜しているように思う。学生の、教員採用試験の集団面接の練習に立ち会ったとき、いじめに担任としてどう対応するかがテーマになった。「いじめは絶対に許されないという立場に立つ」、「被害者の立場に立ち切る」、「早期発見」、「組織的な対応」、「警察との連携」などの意見が出た。試験対策的にはほぼ満点だろうが、どうして子供はいじめるんだろう、どうしていじめられたらつらいんだろうという人間論がない。何よりも、自分はいじめと無縁であるかのような前提からの建前論であることが気にかかった。そんな言葉だけでは、子供の心には届かないだろう。

 社会問題化といじめ対策がスタートしたことによる難しい問題も起きている。たとえばいじめの定義だが、いじめ防止対策推進法では、簡単に言えば、児童生徒が対人関係で「心身の苦痛」を感じればいじめであるとなっている。しかし、世界のいじめ研究に共通するいじめの定義の条件には、「危害を加える意図」、「力の不均衡」、「反復的な要素」という3つのポイントがある。文科省の広い定義は「いじめを絶対に見逃さない」「疑わしきはすべてに注意を払う」という趣旨で、それは大切なことだと思う。ただ難しいのは、法の定義と学術的定義、現場の感覚が必ずしも一致しない点である。学校現場が直面している難しさは、法の定義と児童生徒・保護者の感覚、教師の感覚にズレがあることだ。そのズレから生じる学校・教師の指導への不満から、教師は教育行政と児童生徒・保護者との板挟みになり苦悩する。教師として法律は熟知しておくべきだが、子供たちを指導するときには法律など振りかざさないほうがいい。法律でこうなっているからと禁止・抑圧・管理で押さえ込もうとしても子供の内省、気づきにはつながらない。人間関係の大切さと難しさを本気で考えるのが教育論ではないだろうか。

 法律の定義に「一定の人的関係」という言葉が出てくるが、教育社会学がご専門の内田良さんの本を読んで私が驚いたのは、殺人事件の過半が親族相手であることだった。「愛と憎しみはコインの裏表であって、関係が深くなるほど、愛が成り立つこともあれば憎しみを生み出すこともある」と内田さんは書かれている。また教育心理学がご専門の藤岡淳子さんは、いじめと共通点のある問題とは「親の児童虐待」、「夫婦間のドメスティック・バイオレンス」、「上司のパワハラ・セクハラ」、「担任・部顧問などの生徒への体罰」などの「関係性における暴力」であり、いじめ問題は見知らぬ他人の犯罪・非行と区別すべきだと指摘している。以前、この会議で基調講演をされた作家の重松清さんの作品に中学生のいじめをテーマにした「青い鳥」という小説があるが、その中の「誰かを嫌うのも、いじめになるのですか?」という、教師に対する生徒の問いが、私にはとても哲学的なものに思えた。私自身もそうだが、対人関係の中で「近づきたい」と思う人もいれば「ちょっと距離を置きたいな」と思う相手もいて、それが人というものだ。たとえば何かフィットしないような人をラインから外したら、それだけでいじめになるのか。子供に納得してもらえるような説明を私たちはできるだろうか。人を嫌ったことがない大人などいないのではないか。

 いい教師になろうと本気で苦悩している学生を私は何人も知っているし、彼らに教えられたことも多い。一昨年、ある教職大学院の女子学生の発表を聞いて感動を覚えた。A・B・C・Dと4つのタイプの子供を挙げて、あなたならどの子が好きでどの子が苦手かと問いかける。Aは「おとなしく、目立たない、常に特定の友だちと過ごす」児童、Bは「感受性豊か、頑固、喧嘩っ早い」児童、Cは「まじめ、リーダー気質、運動も勉強も頑張る」児童、Dは「派手、勉強より遊び、友だちが多い」児童である。さらに今度は、自分が担任だとしたらという条件を付けて、同様にA~Dの中から好きなこと苦手な子を選ぶ。実は彼女は、教育実習の際に、好きな児童もいれば苦手な児童もいることに気づき、ある先生に相談したところ、「プライベートと仕事は切り替えられるんじゃないか?」と助言されたそうだ。しかし、彼女はそれが腑に落ちず、「好きと苦手」という問題をずっと考え続けていたのだ。そして、プレゼンの最後に、彼女は、「実は、Aは小学校時代の私です…」と語り始めた。Bは中学時代、Cは高校時代、Dは大学時代の私だと。そして、彼女は、お気に入りの小説「カラフル」(森絵都)に出てくる「明日っていうのは今日の続きじゃない」という一節を引用しながら、「今日苦手だった相手も、もしかしたら明日は…?」という言葉でプレゼンを締めくくった。人は変わりゆく存在であるという人間観。苦手な相手であっても、いつの日かつながることができるかもしれないという「希望」を失わない姿勢。私たちが発し続けるべきメッセージは、そういうことなのかもしれないと思う。