活動レポート

葛西敬之さんとの対談をめぐって  山折哲雄座長に聞く

対談をめぐって山折哲雄座長インタビュー   山折座長インタビューによる対談のポイント解説、第7回は葛西敬之氏との対談です。 <対談の内容は下記からお読みいただけます> 第7回対談:葛西敬之氏 (連載) 前編 | 中編後編  

葛西敬之さんとの対談をめぐって  山折哲雄座長に聞く

東海旅客鉄道名誉会長、葛西敬之さんとの対談を山折座長に振り返ってもらいました。 ポイント解説_葛西敬之氏 葛西さんは2005年の春以来、山折さんが座長を務める「こころを育む総合フォーラム」の有識者メンバーの1人だが、それがスタートする以前、読売新聞の読書面「本よみうり堂」の書評を書く読書委員を務めた時期がある。月2回の読書委員会は約20人の作家・学者・評論家らが一堂に会して、膨大な新刊書の中からどの本を紙面で取り上げ、誰が書評を執筆するかを合議で決める。よみうり堂の担当デスク(当時)として、財界屈指の読書家で知られる葛西さんにも加わってもらうべく交渉に出かけたのは、確か社長を退き会長になって間もないころ。まだまだ多忙を極める身だから断られるだろうと覚悟していたのだが、予期に反して本人は強い意欲を見せた。 読書委員となった葛西さんは非常に熱心で、やむを得ない急な事情が生じない限りは欠席しない。何か他の予定もあるのだろう、毎回随行する秘書が時間を気にしている様子だったことも2度や3度ではなかった。それ以上に驚かされたのが、古今東西の書物に通暁した「教養」の幅の広さと深さ。初めて顔を合わせた文壇や学界の著名な委員たちも、葛西さんの発言を聞いたり後日掲載された書評を読んだりして、異口同音に「実業界にもすごい読書人がいるものだ」と感心していたのを思い出す。 山折さんは今回の対談で、旧知の葛西さんにさっそく「教育のあり方」について問いかける。葛西さんは長年にわたって教育改革への提言を行い、海陽中等教育学校(愛知県蒲郡市、06年開校)の実現に心血を注いできたことで知られる人物だから対談のテーマが「教育」となるのは当然だが、本題に入る前に、山折さんは「最近の若い人について感じること」を尋ねた。これに対して葛西さんが第一に挙げたのは「ことば」の問題で、昔は教養の基本に「和」と「漢」が不可欠だったが、最近は「漢」が英語に取って代わられたと言う。相手側に音(響き)としての説得力を持つ文章が理想なのだが、そういう文章が非常に少なくなってきた。電子メールなどのツールは言葉を劣化させる機能も果たしているような気がする、と。この問題は山折さんが以前から鋭い関心を寄せ、折に触れてさまざまな角度から書いたり語ったりしてきたこと。それだけに「ことば」から始まった対談は冒頭からよく響き合い、それが全体に厚みを加える役割を果たしている。 英国のパブリックスクールをモデルにした厳しい全寮制・中高一貫教育男子校として注目を集める海陽中等教育学校。その建学の精神と将来の可能性が対談の大きなテーマだが、それについては葛西さんが熱意を込めて過不足なく語っているので、再録する必要はあるまい。後日の山折さんへのインタビューでは「ことば」をはじめ「沈黙」「自己犠牲」などのキーワードについて、もう少し詳しく語ってもらうことにした。 山折先生イメージ ――葛西さんが「ラブレターは重要な風習だったかもしれない」と漏らしている。今は携帯メールで結婚を申し込んだりする若者も少なくないようだが。 「近代西洋では『初めに言葉ありき』ですが、アジア的な価値観では『言葉』の前に『思い』があります。惚れたという気持ちを言葉で伝えることは、とても難しい。相手の心を動かそうと苦しみながら必死に手で書くのがラブレターでした。文章を音で聞いた時の響きが大切で、文学の『語り物』などは言葉で伝えきれない内容を伝えるために身をよじっている。これが日本文化の本質だと思います。先ごろ亡くなった桂米朝の落語には、それがあった。メールだと、ただの『言葉』しか残らないんですよ」 ――グローバルリーダーのあり方をめぐっても、葛西さんとは意見の一致する部分が多かったようだ。人間とは何か、日本人とは何か、そして己とは何か。この土台がしっかりしていないと真の国際人は育たない。山折さんは「沈黙の説得力」に言及した。 「日本人は文学の語り物でも落語でも、伝統的に『間』や『沈黙』を重んじてきました。単に英語が出来てよくしゃべるというのはダメですが、沈黙にもいろいろあって、個々の見識や人間力に裏打ちされた『沈黙の説得力』が、これからの日本人にはますます求められるような気がします」。そういえば我々には「言わぬが花」という言葉もあった。 ――欧米と日本では「奉仕の精神」に対する考え方が違うという話から、山折さんは戦後世代の「自己犠牲」への拒否反応に疑問を呈し、宮沢賢治『グスコーブドリの伝記』の解釈が変わってきている事実を話題にした。自己犠牲といえば、飢えたトラの母子を見かねて崖下に身を投じる仏教説話の「捨身飼虎図」を連想するが、そうした心事の奥底には山折さんが専門とする「宗教」「信仰心」がやはり存在するのだろうか。 「う~ん。○○のためなら死ねる、命を懸けられるという対象があるかどうかでしょうね。ある時、講演会の後で聴衆にそれを尋ねたことがありますが、「夫」と答えた人はゼロ、「妻」と答えた人もほとんどいなかった。「子供」となれば少し多くなるけれど、では家族以外に何か信じられるものがあるかどうか。今の日本人は、それを持てないまま『幸福』というものを『ないものねだり』しているように感じられます」 ――海陽中等教育学校の実践は注目に値するが、恵まれた家庭の子弟に与えられたエリート教育の場という印象もぬぐえない。例えば吉田松陰の「松下村塾」のように、貧しくても有為の若者を見いだして育てる場があってもいいような気もするのだが……。 「確かに、個人の力を強化するシステムが弱まっています。食客・書生といった見ず知らずの者を受け入れるコミュニティーが消えて久しい。長谷川伸じゃないが、日本人の基盤となる『義理と人情』を見直すべき時代なのかも知れませんね。それにしても、教育は短期的には解決できない問題だと痛感させられます」。『義理と人情―長谷川伸と日本人のこころ―』(新潮選書、11年)という著書もある山折さんらしい述懐である。 ――最後に、葛西さんと初めてじっくり話し合ってみての感想は? 「大企業の最前線にいる存在として、しなければならないことをする『苦闘』を経験し続けてきた人。対談していて共感できるところ、汲むべきものが多いと感じました」  

(文責・永井一顕)