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滝鼻卓雄さんとの対談をめぐって  山折哲雄座長に聞く

  • 2014年8月27日
  • 有識者対談

対談をめぐって山折哲雄座長インタビュー

 

山折座長インタビューによる対談のポイント解説、第5回は滝鼻卓雄氏との対談です。

<対談の内容は下記からお読みいただけます>
第5回対談:滝鼻卓雄氏 (連載)第1回 第2回 第3回 第4回

 

滝鼻卓雄さんとの対談をめぐって  山折哲雄座長に聞く

元読売新聞東京本社社長の滝鼻卓雄さんとの対談を、山折座長に振り返ってもらいました。
ポイント解説_滝鼻氏

今回の対談相手である滝鼻さんは、社長時代の2005年に山折さんを座長とする「こころを育む総合フォーラム」が発足して以来、有識者会議メンバーの1人。日本人の「こころ」が危機的な状況に瀕しているのではないか、と憂える各界の有識者の一員として、ジャーナリズムを代表する立場で積極的に関わり続けている。対談では、滝鼻さんが「職業としてのジャーナリストがどうすれば質的に確保されていくか、非常に心配している」と切り出し、社会のさまざまな事象をどうとらえるかという「観察力」と、これからどうなっていくかを予測する「洞察力」が、今のジャーナリストの間では衰えてきているように思えてならない、と率直な感想を述べた。

それを受けて山折さんは、日本のマスコミ報道に不満を感じた最近の具体例を2つ挙げる。1つは南アフリカのネルソン・マンデラ氏が死去した際、例えばマハトマ・ガンジーの非暴力思想との重要な関連に触れた記事がほとんど見られなかったこと。もう1つは憲法改正論議が集団的自衛権や憲法9条にばかり集中して、天皇の元首化問題について注意を喚起したり批判したりする報道が全くないこと。「憲法学者もマスコミも根本的な問題を論じず、見て見ぬふりをしているとしか思えない」という山折さんの舌鋒は鋭い。

報道すべきことを報道しない――この件で、滝鼻さんは東日本大震災で“潤った人々”の存在や、JR北海道の度重なるミスに対する取材の甘さを問題にした。「書くべきことを書かないのは、ジャーナリストの質や能力が低下してきた証拠ではないか」と。そこで山折さんは、かつて毎日新聞の西山太吉元記者が不倫関係にあった外務省の女性職員から沖縄返還をめぐる日米密約情報を入手した事件を話題にし、世論とマスコミが西山氏を批判したのは、日本人が人格と職業を切り離して考えられないからだと指摘した。ところが司法担当記者だった滝鼻さんは当時、西山事件の法廷に通い詰めて詳細を把握しており、西山氏が自分ではニュースとして報じず国会で利用した点こそが過ちだった、と説く。山折さんは「意外ですなあ。今日はいい話を聞かせてもらいました」と感心した様子だ。

この後「ジャーナリストと孤独」をテーマに、滝鼻さんが長年の経験に基づきジャーナリストのあるべき姿についてまとまった発言をする。それが最終的には個人の決断を迫られる仕事であること。一番大事なのは、読者や視聴者の共同利益という観点から記事を書くことのメリットと書かないことのデメリットを常にハカリにかけて行動すべきだということ。時には少しルールに違反したり、形の上で法律に触れて起訴されたりするようなことがあったとしても、やはり書くべきことは書く。そういう自分の覚悟を持って、どんなに孤独でも戦うことが職業ジャーナリストに必要な要素であること……。

しばらく聞き役に回っていた山折さんは、滝鼻さんのジャーナリズム論に共感を示し「人間を評価する基準」として知性・含羞・ヤクザ性を挙げた。ヤクザ性とは「時には法を犯してでも常識や世間を突き上げる冒険心」のことで、「それには覚悟や決断が要る」と対談でも語っているが、年を取るにつれて知性よりもヤクザ性よりも「含羞」が大事だと思うようになったというのは、なぜか。対談後のインタビューで、そこを尋ねた。多くの辞書は「はじらい・はにかみ(を含んだ表情)」としか説明していないが、山折さんは「控えめで謙虚な生き方という意味でしょう。我々には『恥を知る』や『足るを知る』などと同じように、ノスタルジックな響きのある言葉です」。かつて脚本家・映画監督の新藤兼人が、小津安二郎の映画について「小津の正義は何だったかというと、人を押しのけてまで前へ出ようとしない姿勢のことだ」と評した言葉が、ふと思い出される。

対談の終盤では、その「正義」が焦点となった。「ジャーナリズムの目的は正義の実現にある」と考える滝鼻さんは、日本では欧米と違って正義の実現を「御上」に委ねる傾向が根強く、正義を厳格に定義するのは難しいけれども自分は「大多数の人が正しいと認めてくれること」の実現のために記事を書くのがジャーナリストだと思う、と信念を語った。宗教学者である山折さんは、欧米の正義と日本の正義の違いは「神」の視点の有無が決定的だとする持論を展開。すなわち、日本人はもともと一神教的な超越的価値を持たない民族であり、正邪善悪を超える神のような超越的な価値が存在しない。それを自覚していないところに、現代日本の司法界やジャーナリズムの問題がありはしないかということだ。菊池寛が代表作『恩讐の彼方に』と同時期に書いた小説『ある抗議書』は、 “赦し”という難しい永遠の問題がテーマになっていて「さすがは菊池寛」と感服した由。補足して、インタビューでは以下のような「本音」も聞かせてもらうことができた。

山折先生イメージ

「オウム真理教の事件当時、宗教というものに関していろんなメディアの取材を受けました。私が記者に『ところで、あなたの宗教は?』と逆に質問すると、ほとんど例外なく『無神論』という答えが返ってきた 。信仰心があるかないかではなく、今どきのジャーナリストは“宗教音痴”なんだと感じました。他のことはともかく、宗教については興味もなければ勉強もしていない。インターネット時代になったらエンタテインメント系の情報ばかりが充満して、宗教・文化を扱う領域はますます縮小しているように思えます」

「実は最近、日本人が『野性化』してきているのではないかという気がしています。どういう意味かというと、例えば株価が上がったというニュースに接しただけで誰もが(自分には無関係でも)一瞬、うれしそうな顔になる。あれは何でしょうね。アベノミクス以降は特に目立つ現象ですが『日本人って、こうだったかな?』と、私などは疑念を抱かずにいられません」。肝心な何かを我々はどこかに置き忘れてきたのかもしれない。それは同感だが、はて、どうしたものか……。

山折さんが「こころを育む総合フォーラム」でしばしば言葉を交わす滝鼻さんと1対1で話し合ったのは初めてだそうだが、その相手に対する感想は、こうだ。

「話が論理的で説得力がある。裁判報道のプロフェッショナルですが、それだけに法の世界の限界も知っているという印象を受けました。いや、とても面白かった」

 

(文責・永井一顕)

 

後援
  • 文部科学省
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