活動レポート

山折哲雄 × 滝鼻卓雄 第1回 日本のジャーナリズムには教養が足りない


山折座長と対談していただく5人目の有識者には、元読売新聞東京本社社長の滝鼻卓雄氏を迎えて、日本の教養とジャーナリズムについて語ります。

山折哲雄×滝鼻卓雄対談メイン画像

 

ジャーナリストに欠けている観察力と洞察力

――日本人としての教養を考えるうえで、メディアやジャーナリズムの果たす役割は無視できません。書籍、新聞、雑誌、TV、ウェブなどを通じ、日々、どのような情報に接するかによって、日本人の教養レベルは大きく変わってくるはずです。長らく、ジャーナリズムの世界に身を置いてきた滝鼻さんから見て、今、ジャーナリズムの抱えている最大の問題点は何でしょうか。 滝鼻:どうすれば職業としてのジャーナリストが質的に確保されていくかどうかを、非常に心配しています。私は約50年間、新聞社に勤務しましたが、新聞、テレビ、出版、オンラインのどのメディアでも共通して言えるのは、職人気質の低下です。プロフェッショナリズムのようなものが、以前に比べて、相対的に低下しているのではないかと思います。 今、新聞やテレビのニュースを読んでいると、新しいニュース価値が乏しい。なぜこれがニュースになるの?というものが多くて、同じようなニュースばかりが並んでいる。ニュースに価値がつけられている感じがしない。これでは、ジャーナリズムは進化・発展しないと思います。 では、職業としてのジャーナリズムを回復させるのはどうすればいいか。そのポイントがいくつかあります。 ジャーナリストにとって大切なのは、観察力です。わかりやすく言えば、取材の力と言ってもいいかもしれません。目の前に展開している、さまざまな事象をどうとらえるか、あるいは、とらえることができるか、できないかということです。もうひとつ大切なのは、洞察力。言い換えると、近い将来に向かって、ある事象がどう変化するか、どう展開するかを予測する力です。これが今のジャーナリストは衰えていると思います。 では、なぜ観察力や洞察力が劣ってきたのか。はっきりしているのは、経験、体験が非常に不足しているということです。それに加えて、一般の会社でも同じだと思いますが、マニュアル化という問題があります。今の若い人は、ある問題にぶつかったときに、どうすれば解決できるかについてのマニュアルを欲しがる。われわれの世代には、自分自身が新たな体験をして、ニュースの価値を見つけていく力があったと思います。私自身も、自分で自分の地平を切り開くような感じでやってきました。 これは職場の指導者がいけないのか、自分自身がいけないのか、学校で教えた高校や大学の先生がいけないのか、あるいは家庭に問題があるのか、その答えはよくわかりません。ただ、高校、大学、あるいは家庭で、何を教えられてきたかに関係しているのではないかと思います。 山折:よくわかります。別の言葉で言うと、現実を深く見る観察力と、現実の背後にあるものを見る洞察力が大事だということですね。 滝鼻:そうです。 山折:それから、観察力や洞察力に基づいた未来予測。この3つがそろうとジャーナリズムの報道に、力と説得力が出てきます。

マンデラ死去に対する報道への不満

滝鼻氏イメージ

滝鼻卓雄(たきはな・たくお)
1939年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業後、読売新聞社に入社。論説委員、法務室長、社会部長、総務局長などを経て、2004年1月に読売新聞東京本社代表取締役社長兼編集主幹に就任。同年8月より、読売巨人軍オーナーを兼任。東京本社会長、相談役を歴任。著書に『新しい法律記事の読み方』(ぎょうせい・共著)、『新・法と新聞』(日本新聞協会・共著)がある。

山折:少し具体例を出してみます。南アフリカのネルソン・マンデラ氏が亡くなったときの日本のマスコミの報道に、私は大いなる不満を感じました。 ひとつ目には、あの追悼式に世界各国の首脳クラスが集結しましたが、日本からは皇太子がおひとりでポツンと出席されていた。福田康夫元首相が付き添ってはいましたが、メディアにも現れないし、談話も残していません。なぜあれほど重要な世界の舞台に、安倍首相が出て行って、日本の立場を主張しなかったのか。そうした批評をする記事が、どのメディアにもありませんでした。 2つ目に、マンデラ氏はアパルトヘイトを撤回させて、白人と黒人が平等に扱われる国家を作り上げましたが、彼の運動の根幹には、マハトマ・ガンジーの非暴力思想があります。しかし、そのことを指摘したメディアがほとんどなかった。唯一、読売新聞だけが、わずかにガンジーに言及していたことは高く評価しますが、それでも、ガンジーからルーサー・キングに伝えられた非暴力思想の運動が市民権運動につながり、その延長線上にオバマ大統領が登場したことまでは触れられていません。あれだけ大きく世界に貢献したガンジーとの関連性、重要性を伝える調査報道がどの新聞にも見られなかった。これは絶望的な話です。こういう観点が、今の日本のメディアには欠けています。 3つ目に、「現実のアフリカ」を伝える報道が乏しかった。今、アフリカでは、マンデラ氏の偉大な仕事を裏切るような事件が続発しています。そうした事件は個別には各新聞で報道されていますが、全体の流れの中で報道する調査報道がありませんでした。 滝鼻:マンデラ氏が亡くなったニュースを、点でとらえるのではなく、ガンジーから始まってキング牧師、そしてマンデラ氏につながる非暴力思想の系譜でとらえれば、新しいニュースの価値が生まれて、クリエーティブなニュースになるはずです。それなのに、マンデラ氏だけに光を当ててしまう。これだけ世界が混沌として明日の世界が見えない中で、偉大な3人の人物を線状につなげなかったところに、現在のジャーナリズムの怠慢というか、質の低下があるように思います。 わが身を振り返ってみても、その3人をつなぐことができなかった背景には、根本的な教養の不足があるのではないでしょうか。 山折:そういう問題はあります。 滝鼻:すべての新聞記者に、山折さんのような教養を求めるのは酷ですが、そうしたニュースのつながりを発想するには、ある程度、歴史を知ることが必要になります。それから、非暴力、あるいは、暴力、戦争についてつねに関心を持っておく。それらを連続的に考える日常的な教養がないと、調査報道という形でニュースをつくるのは難しい。 山折:やはり体験が必要です。私はたまたまインドを研究対象にしていたので、現地を何度も訪れています。そうした体験があるのは大きいでしょう。

象徴天皇制をどう考えるか

山折座長イメージ

山折哲雄(やまおり・てつお)
こころを育む総合フォーラム座長 1931年、サンフランシスコ生まれ。岩 手県花巻市で育つ。宗教学専攻。東北大学文学部印度哲学科卒業。駒沢大学助教授、東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授、国際日本文化研究センター教 授、同所長などを歴任。『こころの作法』『いま、こころを育むとは』など著書多数

山折:もうひとつ具体例を出します。今、自民党政権は憲法改正を目指していますが、メディアの報道は、もっぱら集団的自衛権や憲法9条に集中しています。それはどちらも非常に重要なテーマだと思いますが、どこの新聞も金太郎あめみたいに、この2つの問題ばかりを扱っています。 ただ、私が、ひょっとするとこの2つの問題より重要かもしれないと思っているのは、天皇の元首化の問題です。これは大変なことです。場合によっては、天皇制のあり方を明治の時代にまで戻すことになりますから。にもかかわらず、この問題について、注意を喚起したり、批判したりする報道がまったく見られません。 そこで私は、あるメディアに次のようなことを書きました。 日本の象徴天皇制における天皇の位置を考えるためには、日本の歴史だけでなく、イギリスの政治制度をよく理解しないといけない。なぜなら、近代憲法の源流にイギリス憲法があり、日本の議会制民主主義はイギリスから学習してきた部分が大きいからです。つまり、イギリスの君主制における君主の権限がどういうものであるか、それと日本の象徴天皇の権限がどういうものかを比較してみる必要があるわけです。 岩波文庫から、『世界憲法集』という本が出版されていますが、この本は日本の憲法学の結晶と考えていいと思います。しかし、その本には、フランス憲法やアメリカ憲法や日本憲法は載っていても、イギリス憲法は載っていません。本の序文で、「イギリス憲法は不文憲法(憲法として法典化されていない憲法)だから掲載できない」と弁解しているわけです。 それならば、慣習法としてのイギリスの王権にかかわるさまざまな条項のうち、日本の憲法と対応するところを抜き出して比較可能にするのが、憲法学者の仕事のはずです。そうした批判を書いたのですが、今のところ、識者からの反応はありません。私はこの問題を以前から指摘していますが、これは戦後の日本の東大を中心とする憲法学の怠慢以外の何物でもないのではないかと思っています。あるいはそこになにか政治的な意図でもあるのか、それを知りたい。 滝鼻:メディアも政治家も見て見ぬふりをしているんでしょうね。 山折:おそらくそうだろうと思います。象徴天皇制は実によく作られています。イギリスの君主制のあり方よりも、はるかにこちらのほうが優れていて、それが日本の国柄を支えているとも思っています。ところが、集団的自衛権や憲法9条の問題ばかりを議論して、根本的な話をせずに見て見ぬふりをしている。これは危ない状況です。 滝鼻:山折さんの話で思い出したことがあります。1976年にカナダのモントリオールでオリンピックが開かれましたが、ご存じのようにカナダはイギリスの旧植民地です。IOCの憲章では、オリンピックの開会宣言は元首がやることになっていますので、当時、「カナダにおける元首は誰か」が大議論になりました。この議論を、私はオリンピックの2カ月前からカナダに入って現地で見てきました。 当時、カナダの総理大臣はピエール・トルドーで、政府も彼に開会宣言をしてもらうつもりでした。しかし、イギリスのアン王女(馬術競技で出場)を応援するために、エリザベス女王がモントリオールに来ることになり、カナダ政府は困ったのです。エリザベス女王のいる横で、旧イギリス大英帝国の傘下にあったカナダの総理大臣が、オリンピックの開会宣言をしていいものだろうか、と。 山折:それは、面白いですね。 滝鼻:現地の新聞でも喧々囂々(けんけんごうごう)の議論になりましたが、結論から言うと、最終的にはトルドーが引いて、エリザベス女王が開会宣言をしました。カナダは独立国であり、民主的な総選挙によって総理大臣を選んでいるけれども、国家元首は、あくまでイギリス連邦の元首であるエリザベス女王だというのがその理由です。 ただ、アメリカの新聞は納得せず、ニューヨーク・タイムズやワシントン・ポストは「それはおかしい。なぜトルドーがやらないんだ。カナダは主権国家なのか」と批判していました。 私はそういう経験もあるだけに、集団的自衛権や憲法9条の問題の前に議論することがあるだろうという山折さんの意見が理解できます。これほど重要な問題を、ジャーナリズムが見て見ぬふりをしているのは、事実だと思います。 山折:将来、エリザベス女王が亡くなったときに、日本のジャーナリズムはそうした論点にしっかり触れるのかどうか。そこにとても興味があります。   (撮影:梅谷秀司) ※ 続きは次週掲載します